「ゴー宣道場」の内輪の話を書いておく。
一昨日と昨日、一人づつ門下生と電話で話した。
それぞれに言い分があってまったく食い違っているが、
二人とも相手の優れたところを誉めていた。
あれだけこじれた関係になっても、相手の優れた能力
を誉めるのだから、二人とも「公心」が強いのだなと
感心した。
その優れたところは、わしの観察と一緒で、両者よく
分かっているのだ。
わしはこの二人とも、間違いなく「能力」があり、
わしはすでにその能力の恩恵を受けている。
一人はすでにその能力で新風を吹かせてくれた実績が
あるし、一人はわしに門下生の人物像を的確に教えて
くれて、一人ひとりが見えるようになってきた。
個性が強い、能力が高い、エネルギーが過剰、主体性
が強い、そういう人間は必ず誰かから嫌われる。
一見、「承認欲求」が強いだけの最近のネット民と同類
に見えてしまうからだ。
だが、完全に違っているのは「能力」である。
「能力」のない「承認欲求」はウザいだけだが、
「能力」があれば承認してやるべきだろう。
「公論」のために集ってくれる人は一人ひとりが大切
だが、悪平等になって、個性の強い人間の「能力」を
潰してしまうのはもったいない。
「ゴー宣道場」は組織じゃないし、ボランティアが
支えてくれているんだから、ボランティアに上下の
身分はないし、キャリアも関係ない。
貢献したいという意欲が強い人がいれば、それはただ
ありがたいことで、もっと楽しくしたいとリスクを
負う「責任」まで持ってやってくれる人がいれば、
世の中には奇特な人がいるもんだなあと感嘆するしか
ないではないか。
責任を持ってくれる人には感謝する。
活力をもたらしてくれる人は神輿に上げる。
それが庶民の知恵だと思うのだが。